フジサンの秘密基地!

とりあえず娯楽の本質を模索する試験ブログです。

z-night

 昔の人は思いました。

 「貧富の差による教育格差が無ければ、家庭環境の差による機会の損失さえ無ければ、ワシらは才能を開花出来て幸せになれたのに……悔しい、悔しいよ…。

 かみさま……お願いだあ、もっと平等な世の中にしてけろ」

 その時代、才能が開花するかどうかは産まれた環境に左右され、才能が開花出来なかった下層民はまとめて無価値な物として扱われていた。 

 

……25年後。 

 

 西暦2024年。

 テクノロジーの発達や教育改革により、かつてのような極端な教育格差は消滅した世界。

 

 人々は打ちひしがれていた。

 この時代の若者達はほぼ全員がインターネットを使いこなしWebデザインが出来たし、大人たちと対等にやって行ける専門知識を身に着けていた。………そう、ヤンチャな底辺層でさえも大企業でやってゆける教養を効率の良いやり方で身に着けていた。

 

 

 

 昔々大昔は夢を追ったり才能を開花出来るのは金持ちだけで、貧民層はどれだけ才能があろうと貧民層のままだった。

 だからそれぞれの層の同じグループ内に例えば

才能の上限が0〜100までの人が混在していて富裕層では才能が0よりな人が、貧困層では才能が100よりな人がイジメの対象になっていたが、層どうしの罵り合いの時は一致団結できた。これが昭和産まれのおじさんが育った社会。

 

 だけど今の世の中はこの構造ではないから昭和生まれが令和の30歳以下の世代を理解するのはかなり難しい。

 

 かつて不可能だと思われた「一人一人の子供にあった教育」が実装され20年近く運用された世界線で何が起きているのか? 

 貧富の差による教育格差と機会格差がほぼ無くなった世界線

 そこは才能によって細かくカテゴライズされたバラバラの社会。

 人間一人一人に最適化された環境が与えられたら次にどんな問題が起きるのか?

 例えば才能の上限が5の人には上限である5まで、上限が100の人には上限である100まで教育が施される事になる。フルカスタム人間ですね。

 ではフルカスタム人間同士が出逢うとどうなるかと言うと、才能上限5の人間は才能上限6の人間に勝つ事が出来なくなった。お互い上限いっぱいまで改造されてて生れつきの遺伝子で先に勝敗が決まっている為に。才能上限5の人間は才能上限100の人間とは最早話をする機会すらありません。

 

 教育格差が無くなった社会というのは個人の能力の余白が無くなり、自分の可能性を信じる余地の無くなった閉ざされた世界。毎日芸能オーディション紛いな事をやらされ産まれた瞬間から価値の確定してしまうディストピア

 その昔、貧富の差による教育格差が絶対的だった時代では富裕層の中に才能の無い人間がいたから、それをチョット才能のある貧困層の人間が下から槍で突いて憂さばらししている光景がしばしば見受けられた。

 駄馬もサラブレッドも貧民層として雑に纏められていたから才能の上限なんて気にせず「家庭環境さえ良ければ俺もプロになれたのに」「よーし、あいつら金持ちの無能息子より才能が上って事を見せつけてやる!」などと夢を見ていられた。

 

 

 教育格差を取っ払って一人一人の才能を伸ばしますと言えば聞こえは良いが、実際は子供をDNAレベルで丸裸にして世間の目に曝すということ。その中からうちら大人にとって都合の良い人間に高収入の約束を、そうでない人間には「カネを稼げない人間はいらない」とバッサリ切り落とす事。

 Z世代はそういう品評会じみた事を当たり前に経験してきた世代。

 「これがお前の価値で、ソースはこれ」

 昭和世代なら、何糞そんな事!ってなるけど、それはあくまで機会が不平等過ぎたから言えることであり、一通り教育を受けてみて限界が見えた世代の場合、そこが頭打ちだから退路は無い。

 だから才能が埋もれてた時代のほうがむしろ根拠のない希望が持てたんです。頑張るエネルギーは根拠のない信仰からしか生まれない。

 

 

 

こんなはずじゃ無かった。

 みんな違ってみんな善い。

そういう楽園が来るもんだと本気でワシらは信じてた。

 教育格差が是正され、機会が平等な社会になったら全員が中島みゆき安達祐実になれる、……訳じゃ無かったのじゃ。