フジサンの秘密基地!

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境外摂末社 すわ神社

~ 諏訪神社 

昔弥十村有志で祭事行っていたが現在本郷町にて奉斎、例祭八月十四、五日 ~

       津毛利神社パンフレットより。

 

 日本列島のお腹辺りにある音楽とウナギの街が静岡県浜松市

 そこは “暴れ天竜” の異名を持った大きな川である天竜川がなが〜い年月をかけて山を削り土と砂をばらまいた砂浜に出来た大都会。(扇状地といいます)

 その南東にある海ぞいの街に神社がある。

昔は浜松市全域と天竜川がその神社の境内だったが、時代とともに小さく小さくなり今は海に向かう街道の一角、住宅地の入り口にたたずんでいます。

 1300年前の奈良時代に勅令を受けた藤原不比等(ふじわらのふひと)が部下とともに住吉大社から船旅の神さまを呼んで作った津毛利神社(つもりじんじゃ)です。

 『政治』を古い言葉で政(まつりごと)といいますが、昔は国を治めるのにも村の話し合いをするにも必ず神さまにおうかがいや誓いをたてなければならなかったので神社というのは会議場を兼ねておりましたし、大きい神社になると市役所のような感じで広大な敷地の中に例えば農業を監督する人達、漁業を監督する人達、といった具合に職能集団に応じた神社が幾つもあり各々が神さまと相談しながら会議していました。

 

 国道150号線からはずれた時計屋さんの角を曲がり芳川という小川を渡るとその先に津毛利神社の境外摂社と思しき神社があります。

 ちなみに摂社(せっしゃ)というのは、かつて大きな神社の境内に建っていた小さいながら重要な神社のことで多くは大きな神社に深い関わりのある神社か、大きな神社が建つ前から村の守り神として岩に注連縄してあった地主神のたぐいです。

 時代の流れで大きな神社の境内が縮小していった結果、境外地に取り残されてしまった摂社の事を境外摂社(けいがいせっしゃ)と言います。

 

 

 今は公園の奥に鎮座している諏訪神社(すわじんじゃ)は、市内を流れる大きな川……長野県諏訪湖を水源地とする『天竜川』を御神体とし、祭られている神さまは国譲り神話の中で雷神タケミカヅチと一騎打ちした竜神タケミナカタ

 

 天竜川は古来より長野県と静岡県をつなぐ舟の道で、上流から材木をはじめ色々な品物が運搬されて来てましたし、その物流に携わった長野県の人々がそのまま下流域へ下流域へと拠点の川港やその周辺の集落に作っていったのが無数の諏訪神社だと思います。(違ってるかも知れない)

 因みに大昔の天竜川は今より西側にあり、海も今より内側にあったため津毛利神社の本殿は丁度、河口の港と海の港、陸の道が交差する場所につくられたことになりますね。東西南北の人や物が集まる場所に陣取っていてひょっとしたら今で言う県庁所在地みたいになっていたのかも知れません。だからこそ浜松市は寂れる事なく大都会に成長したのでしょう。

 事実のみをお伝えするなら、天竜川を挟んだ向こう側はかつて磐田市から掛川全域に渡る事任神社(現小國神社)の社領地となっていて月の神さまを祭ったり、修験道が盛んだったりしました。

 

 

 

 (この諏訪神社が津毛利神社の摂社)

 

 その昔、土着の小さな神社は村の方針を決める重要な場所でしたから、天竜川河口のこの諏訪神社は川船の積荷を牛車や海船に振り分けたり、逆に街道や海から来た荷物や人を川船に載せる事を生業としてきた商社のようなものだったと私は思いますね。

 だからこそ奈良時代に勅命(天皇による命令)が出され津毛利神社がつくられた際に接収されたのではないでしょうか? 

 ただ解せないのは、その勅使としてやってきたのが単なる役人では無く藤原不比等という大臣(おとど、今でいう総理大臣)、つまり事実上の最高権力者であるばかりか、宮司としてやってきたのが大伴一族という天皇親衛隊だったこと。

 磐田市国府(いまでいう県庁)が置かれたのは平安時代なので、ここが事実上の国府だったのはわかりますが、それにしては過剰な配置というか…………まるで人や物の流れを国を挙げて監視していたかのような印象を受けました。

 ただ私は歴史が得意ではありませんし他の都道府県の状況もよくわかりません。

 よろしければコメント欄で教えていただけたら幸いです。